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松下幸之助は何がすごい?すごさや名言生い立ちを解説

2023.04.13

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日本にはたくさんの優れた経営者が存在しますが、なかでも群を抜いて高い評価を得ている名経営者が、松下電器(現:パナソニック)の創業者である松下幸之助です。一代で世界企業を築いた松下幸之助は「経営の神様」と呼ばれ、稲盛和夫氏をはじめさまざまな経営者が手本にしているだけでなく、週刊ポストが2022年に実施した『歴代最高の経営者ランキング』でも第1位となっています。

歴代最高の経営者ランキング

出所:『週刊ポスト2022年2月18・25日号』

本記事では、そんな松下幸之助のすごさを生い立ちや名言・現代に与えた影響など様々な視点からご紹介します。


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目次

松下幸之助の生い立ち

幼少期(12歳まで)の松下幸之助

松下幸之助は1894年11月27日、父親の政楠(まさくす)と母のとく枝(え)のもとに和歌山県海草郡和佐村(現:和歌山市)で生まれました。松下家は小地主の階級であり、資産家であったため比較的豊かな暮らしをしていました。

しかし、豊かな暮らしは長く続かず、松下幸之助が4歳のときに、父・政楠が米相場(米の先物取引)で失敗。これにより、先祖伝来の土地と家を手放すこととなり、父・政楠は1人で大阪に出稼ぎにいくようになります。

そこで父・政楠から「大阪八幡筋の火鉢店で小僧が要る」と連絡がきたため、松下幸之助は1人で大阪に丁稚奉公に出たのです。まだ9歳のことです。

しかし、松下幸之助が丁稚奉公を始めてからわずか3ヶ月ほどで閉店してしまったので、「五代自転車商会」に移ることになったのです。

松下幸之助はこの五代自転車商会で頭の下げ方から身だしなみ・言葉遣い・行儀といった社会人としてのマナーを学びました。

16歳にして独立を考える

丁稚奉公を始めてからおよそ5年後、大阪市では電気鉄道の線路が敷かれるようになります。松下幸之助はこれをみて「これからは電気の時代がくるから、自転車の需要は減るはずだ。逆に電気事業はこれから伸びるはず」と考えました。

その後電気に関わる仕事を志し、15歳で今の関西電力である「大阪電灯株式会社」に内線係見習工として入社します。松下幸之助は優秀であったためスピード出世を果たし、16歳最年少で「工事担当者」、22歳で「検査員」に昇格しました。

しかし、松下幸之助は「肺尖カタル」という病気にかかってしまいます。病気になったことで不安定な日給生活に不安を覚え、妻と独立を考えます。

このとき松下幸之助は、当時は専門家でなければ危なくてできなかった電球の取り外しを誰でもできるようにしようと考えて、電球ソケットの開発をしていました。

しかし、主任からはあまりいい顔をされなかったため、松下幸之助は開発したソケットをもとに大阪電灯株式会社を辞め、独立を決めます。

22歳で二畳から始まった会社創業

1917年、松下幸之助は95円ほどの資金をもとに独立しますが、お金が足りず機械の購入もできませんでした。当時、大卒サラリーマンの初任給はおよそ50円から60円ほどだったため、95円といえば約2ヶ月分の給料でしかありません。

そこで松下幸之助は友人から100円を借り、妻の弟の井植歳男氏を呼び寄せました。ちなみに、この井植歳男氏は、後の「三洋電機」の創業者として活躍することになる人物です。

当時は借りていた四畳半の家の半分を工場として使っていたため、たったの二畳から松下電器は始まったのです。

開発したソケットが全く売れず…

松下幸之助は開発したソケットを売ろうとしていましたが、ソケットの胴に必要な「練物の製法」に関する知識がありませんでした。

そこで、松下幸之助は練物工場の原料のかけらを拾ってきて研究したり、元同僚に教えてもらったりしながら研究をすすめ、ようやくいくつかのソケットを製造することができました。

しかし、苦労の末に生み出したソケットは全く売れる気配がなく、大阪中で売り回ってもたったの10円ほどの売上にしかならなかったのです。

扇風機部品の大量注文が舞い込む

失意のなか、松下幸之助のもとにチャンスが舞い込みます。

それは、扇風機に必要な碍盤(がいばん)という電気を通さない板の大量注文です。なんと1,000枚もの注文が舞い込み、「結果さえよければ2万なり3万なりの扇風機に全部応用する。」というビッグチャンスでした。

納期が厳しかったものの、松下幸之助と井植歳男氏はなんとか1,000枚を納品し、80円という利益を得たのです。この成功をもとに松下幸之助は、アタッチメント・プラグや二灯用差込プラグを開発。これらがよく売れたため、経営が軌道に乗るようになりました。

そして、1918年に後のパナソニックとなる「松下電気器具製作所」を創業します。

門真移転から第二次世界大戦後の社長復帰まで

1933年、事業拡大のため土地が広い大阪府北河内郡門真村(現:門真市)に本社・工場を移転しました。さらに1935年には「松下電器産業株式会社」として法人化も果たしました。

第二次世界大戦中は、軍から強い要請を受けて軍需品の生産に協力するため、1943年4月に「松下造船株式会社」を設立しました。海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造しました。

次いで1943年10月には盾津飛行場そばに「松下航空機株式会社」を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに4機試作し、試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から惨憺たる失敗に終わりました。

戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けます。一方で1946年11月にはphp研究所を設立し、出版活動や倫理教育に乗り出すことで世評を高めました。

内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰します。

社長復帰後

1948年後半から、インフレを抑制するために取られた金融引き締め政策の影響で苦境に陥りましたが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切りました。

1951年、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年にオランダのフィリップス社と技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、1997年4月松下電器に統合)を開始しました。

1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した。

1957年には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させました。

以後、自社製品の地道な拡販交渉を続ける松下幸之助の姿勢に共感した電器店が「ナショナルショップ」網へ次々新規参入し、こうした「松下幸之助に対する小売店スタッフの強い忠誠心」がナショナルショップを(ピーク時に約2万7千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる原動力となりました。

会長就任後

1961年に会長に就任し、第一線を退きますが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相まって赤字に転落します。しかし、1962年には、アメリカのタイム誌において、松下幸之助の経歴、思想及び松下電器の発展の姿が詳しく紹介されました。

1964年には家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発します。

社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間にわたって逆に吊し上げられました(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる「熱海会談」)。このため「共存共栄」と自筆した色紙を200枚配布して沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務し、トップセールスとしての現場復帰を余儀なくされました。

1967年7月、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けましたが、拒否したため消費者から批判を浴びました。

1970年5月には、ナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立し、後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ(現:スーパーパナソニックショップ)」の母体となりました。

また、日本万国博覧会(大阪万博)に「松下館」を出展します。「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセル(5000年後にひらく球)には、全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵されました。

入館待ちをしていた松下幸之助は、酷暑にもかかわらず入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰がないことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示しました。

これが会場外でも宣伝になって、松下館はさらに人気を呼びました。さらにタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げました。

現役引退後

1973年、78歳を機に現役を引退し、相談役に退きました。1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務めました。1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しました(主な卒業生には後の第95代内閣総理大臣の野田佳彦氏や国民民主党代表代行の前原誠司氏、現内閣府特命担当大臣の高市早苗氏など)。

また、日本だけでなく中国にも影響をあたえています。1978年10月「日中平和友好条約批准」のために訪日した中国の政治家である鄧小平から中国の近代化を頼まれ、それがきっかけで松下電器の中国事業が始まりました。

松下幸之助のすごさとは?

ここまで、松下幸之助の生涯を見てきましたが、ここでは、彼のすごさを表すエピソードをご紹介します。

日本に家電を広めた

1929年に起きた世界恐慌によって、松下電気器具製作所は大量の在庫を抱えてしまい、リストラをしなければならない状況に陥ってしまいました。

しかし松下幸之助は工場を半日勤務として従業員を1人もクビにすることなく、さらに日給も全額支払い続けたのです。

こうして危機を乗り越えた松下幸之助は、「生産者はこの世に物資を満たし、不自由をなくすのが努め」とする有名な「水道哲学」に行きつきました。

この水道哲学に基づいて経営し、当時は日本ではまだ普及していなかった家電を日本全国に広めたのです。

週休二日制を導入した

現在では当たり前の週休二日制ですが、実は法令で定められているものではないということは知っていますか?

実は、週休二日制を初めて導入したのは松下幸之助です。

1965年に松下電器産業が導入しましたが、他の企業も週休二日制にするようになっていったのは、それから15年後の1980年ごろでした。

しかし、松下幸之助が週休二日制を導入した理由は、ただ休みを2日にするためではありません。彼は「休みの1日は休養のために、そしてもう1日は教養のために使うこと」を目的に週休二日制を導入したのです。

無料配布を行った

1927年4月、松下幸之助は「ナショナルランプ」という自転車ランプの発売にあたり、1万個をお店で無料配布するという、当時では誰も行っていなかった宣伝をしようと考えました。

しかしランプを配布するには、中にいれる乾電池が必要です。そこで松下幸之助は、乾電池の仕入先である岡田乾電池を訪れ「1万個の乾電池を無料でください」とお願いしたのです。

当然、荒唐無稽な話に岡田乾電池の社長も「それは乱暴な話ではないですか」と相手にもしませんでした。

しかし松下幸之助は諦めず「ナショナルランプはとても良い製品だ。1万個を無料配布することでさらに多くの人に知ってもらえるから、必ずその後は売れるはず。そうなれば乾電池も売れることになるため、社長にとっても嬉しいはずだ。」という考えのもと社長を説得しました。

ナショナルランプのおかげで想定の2倍仕入れた乾電池

松下幸之助は岡田乾電池の社長に「年内に20万個以上乾電池を仕入れる」という約束をして、ナショナルランプの無料配布をスタートさせます。

ランプは大好評(翌年末には月3万個にも達するほどの伸び)で、1,000個の見本を配り終わるころには続々と注文が舞い込むようになり、そのおかげで岡田乾電池は、最終的に約束の年内20万個をはるかに凌駕する47万個の乾電池を松下電気器具製作所に仕入れていたのです。

これを受けて、めったに得意先周りをしない岡田乾電池の社長が、紋付、羽織、袴に威厳のある立ち居振る舞いで、わざわざ東京から大阪の松下幸之助のもとへ出向いたのです。岡田乾電池の社長は、水引をかけた乾電池1万個分の代金1500円を、感謝状まで添えて手渡しました。この行動に松下幸之助は、胸が打ち震えるほどの喜びを味わったと言っています。

日本で初めて事業部制を導入

今では、大多数の上場企業で採用されている、事業部制ですが、日本で最初に導入したのは松下幸之助だと言われています。

1933年、工場群を3つの「事業部」に分け、製造分野別の自主責任体制を敷きました。これにより各事業部は、それぞれの傘下に向上と出張所をもち、研究開発から生産販売、収支に至るまで一貫して担当する事業体となりました。

事業部制を取り入れた理由は、業容の拡大に伴って新たな仕事が増え、処理しなければならない問題が非常に多くなり、松下幸之助自身がすべてを見ることができなくなってきたからです。また、松下幸之助自身が、体調を崩して休むこともたびたびあり、仕事がスムーズに進みにくく、能率が減退するということもあったことも理由の一つと言われています。

このように、事業部制に踏み切ったわけですが、事業部の経営を任された人はみな意気に感じ、自らの能力と創意を十二分に発揮して取り組んだといいます。

松下幸之助は後に、「人間は責任を与えられ、仕事を任されると、自分なりの創意工夫を働かせてそれを遂行していこうとするものだ。だから指導者は、大綱をつかみ、基本的な方針を示したうえで、あとは部下の人々に責任と権限を与えて自由にやらせるのが望ましい。それによって、それぞれの人の知恵が発揮され、全体として衆知が集まって仕事の成果もあがってくる」と述べています。

最も売れたビジネス書著者

1961年に社長の座を退いた後は、数多くの書籍を出版し、成功哲学、人生論を率直に語っています。豊富な体験に裏打ちされたシンプルで深い言葉の数々は多くの日本人の心をつかんできました。自著の累計部数は1300万冊以上と言われ、これは最も売れたビジネス書著者となっています。

なお、主な著書には以下のものが挙げられます。

  • 道をひらく:562万部
  • 指導者の条件:102万部
  • 商売心得帖:92万部
  • 物の見方 考え方:87万部
  • 素直な心になるために:72万部
  • 実践経営哲学:47万部

また、自著ではありませんがphp研究所から出版された『松下幸之助「一日一和」』も82万部とベストセラーになっています。

戦後最大の金持ち

2006年に廃止された高額納税者番付(高額納税者公示制度)では、10回全国1位を記録、さらに40年連続で100位以内に登場し、生涯で5000億円の資産を築いたと推定されています。

また、1989年4月27日に松下幸之助はなくなっていますが、その遺産総額は約2500億円で日本史上最高とされています。

相続税は約854億円(妻が遺産総額の2分の1の約1224億円を相続しましたが、妻は配偶者控除であったため納税はなく、妻以外の6人に相続税約854億円が課税された)でした。この相続税額もブリヂストンの創業家、石橋幹一郎氏の1135億円に次いで2位です。

莫大の私財を社会貢献活動に使われた

前述のように莫大な資産を築いた松下幸之助ですが、豪邸も豪華なパーティーも好まず、私財を社会貢献活動に使ったと言われています。ここではどんなことに使われたのかご紹介します。

浅草寺雷門大提灯

東京浅草にある浅草寺の雷門は、1865年に火災によって焼け落ちていました。それを復興させたのが松下幸之助です。

浅草寺と松下幸之助の縁は、1950年まで遡ります。当時松下幸之助は、原因不明の神経痛に悩まされており、さまざまな治療を試していましたが、効果がありませんでした。ある時知人から浅草寺で祈祷してもらったらどうかと勧められ、ものは試しと、清水谷恭順・貫首に祈祷してもらったところ、不思議なことに治ったそうです。

その後1958年、今度は清水谷恭順・貫首から雷門の再建を依頼されました。松下幸之助は黙考の後、「寄進させていただきます。しかしなるべく名は出さないでください」と返答しました。こうして雷門の再建が始まり、1960年に完成しています。

梅田新歩道橋

大阪でも指折りの交通の難所である大阪駅前東交差点の交通混雑を緩和するための架橋計画が資金面で行き詰っていることを知り、1964年2月、この陸橋の寄贈を申し出ました。

これを受け、大阪市は、さっそく陸橋建設に取りかかった。この陸橋は、10月に完成しました。この歩道橋は、大阪駅前広場と阪急、阪神両百貨店をL字型に結ぶ、当時としては日本最大のもので、大阪市の交通安全対策に大きな役割を果たすものになりました。

いくつもの財団を設立

松下政経塾

松下幸之助は、「物と心の繁栄を通じて、平和で幸福な社会を実現したい」と願っていました。理想社会の実現のために「我が国を導く真のリーダーを育成しなければならない」との答えにたどり着き、70億もの私財を投入して設立したのが『松下政経塾』です。

https://www.mskj.or.jp/

霊山歴史館

霊山歴史館は、1970年に開館し、初代館長を務めたのが松下幸之助です。この歴史館は幕末・明治維新を専門とする日本唯一の博物館です。幕末の京都で活躍した討幕派の志士や幕府側の人々の遺品や資料などを展示しています。

https://www.ryozen-museum.or.jp/

国際科学技術財団

「世界の科学技術の発展に資するため、国際的に権威のある賞を設けたい」という政府の構想に賛同した松下幸之助は、1982年11月、科学技術の分野で人類の平和と繁栄に顕著な貢献をした人々を顕彰するために、みずから推進役となって日本国際賞準備財団を発足させ、初代会長に就任しました。

1983年5月より国際科学技術財団と名称を変更し、現在に至っています。なお同財団は、1985年4月20日以来、年に一度、科学技術において独創的・飛躍的な成果をあげ、科学技術と人類の進歩に著しく貢献したと認められる人に『日本国際賞』を贈呈しています。

https://www.japanprize.jp/

その他松下幸之助に関する施設がある

松下幸之助に関する施設も存在しています。

松下電器歴史館

松下電器歴史館は、大阪府門真市にある、1968年に創業50周年記念事業の一つとして開館した企業博物館です。館内は、パナソニックが現在までに至るまでの歴史や、松下幸之助の生涯について展示されています。

なお、2018年3月にパナソニックの創業100周年を機に『パナソニックミュージアム』としてリニューアルし、松下幸之助の経営観、人生観に触れられる「松下幸之助歴史館」、パナソニックのものづくりのDNAを探る「ものづくりイズム館」、「さくら広場」で構成された施設となっています。

https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/panasonic-museum/facility.html

松下資料館

松下資料館は、京都府京都市にある、1994年5月に松下幸之助の生誕100年を記念して開館した資料館です。松下幸之助の生き方、考え方、企業経営のあり方、さらには国家・社会の展望にいたる幅広い内容を著作や映像、グラフィックパネル等を用いて紹介しています。

https://matsushita-library.jp/

なお、昨年NBCではこの資料館で研修会を行いました。その動画をyoutubeで公開しています。松下幸之助に学ぶ経営

現代の経営者にも影響を受けた人物が多い

冒頭の週刊ポストが2022年に実施した『現役最高の経営者ランキング』は以下のとおりになっています。

※2022年2月に実施したため同年8月に逝去した稲盛和夫氏がランキングに含まれています。

順位 経営者の名前 肩書き
1 孫正義 ソフトバンググループ社長
2 永守重信 日本電産会長
3 柳井正 ファーストリテイリング社長
4 豊田章男 トヨタ自動車社長
5 稲盛和夫 京セラ名誉会長
6 井上礼之 ダイキン工業会長
7 岡藤正広 伊藤忠商事会長
8 新浪剛史 サントリーホールディングス社長
9 三木谷浩史 楽天グループ社長
10 似鳥昭雄 ニトリホールディングス会長
11 鈴木敏文 セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問

上記のランキングの中でも、松下幸之助に影響された人物が多くいます。

1位の孫正義氏は、起業当初車内でかけていたのが、『経営百話』で、テープが擦り切れるまで毎日聞いてたようです。

3位の柳内正氏も、松下幸之助の著作を読み、水道哲学こそ産業人の使命であり、自らの原点としています。また、ユニクロが現在のように発展したのも松下幸之助のおかげであると感謝しているようです。

さらに5位の稲盛和夫氏も松下幸之助の言葉に感動を受けた人物です。

ある関西財界セミナーで「ダム式経営(※)はどうやったらできるか方法を教えていただきたい」と質問した人がいます。すると松下幸之助は「ダムをつくろうと強く思わないといけない。願い念じることが大事です。」と答えました。

この答えに稲盛氏は非常に感動したと語っています。なぜなら、自分は経営を上手く進めたいとは思っていたが、強烈な祈りを込めるほどの熱意はなかった。事業経営は「できる、できない」ではなく、「そうでありたい、こういう経営をしよう」という強い願望を持つことが大切だと感じたからです。

※ダム式経営とは?

ダムのように、外部の諸情勢の大きな変化があっても適切にこれに対応し、安定的な発展を遂げていくことができる適正な余裕というものが、設備や資金、在庫、人材、技術、商品開発といった経営のあらゆる面に必要であること。

松下幸之助の名言・金言

松下幸之助はいくつもの名言や金言を残しています。ここではその一部をご紹介します。

人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。

どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。

楽観よし悲観よし。悲観の中にも道があり、楽観の中にも道がある。

志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。

人がこの世に生きていく限り、やはり何かの理想を持ちたい。希望を持ちたい。それも出来るだけ大きく、出来るだけ高く。

アイデアを生むと言っても、口先だけでは生まれない。これもやはり熱心であること。寝てもさめても一事に没頭するほどの熱心さから、思いもかけぬ、よき知恵が授かる。

商売とは、感動を与えることである。

人には燃えることが重要だ。燃えるためには薪が必要である。薪は悩みである。悩みが人を成長させる。

誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。

いくら熱心でもムダなことやったらいけませんで。それがムダかどうかは、あなた自身で考えなさい。これはムダなことかどうか、一つひとつ検討しなさい。必ずムダなことをやっているに違いない。

迷う、ということは、一種の欲望からきているように思う。ああもなりたい、こうもなりたい、こういうふうに出世したい、という欲望から迷いがでてくる。それを捨て去れば問題はなくなる。

万策尽きたと思うな。自ら断崖絶壁の淵にたて。その時はじめて新たなる風は必ず吹く。

「それは私の責任です」ということが言い切れてこそ、責任者たりうる。

世間には大志を抱きながら大志に溺れて、何一つできない人がいる。言うことは立派だが、実行が伴わない。世の失敗者には、とかくこういう人が多い。

部下に大いに働いてもらうコツの一つは、部下が働こうとするのを、邪魔しないようにするということだ。

商売や生産はその商店や製作所を繁栄させることにあらず、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。

人生には損得を超越した一面、自分がこれと決めたものには命を賭けてでも、それに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか。

商売や生産はその商店や製作所を繁栄させることにあらず、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。

私は60年にわたって事業経営に携わってきた。そして、その体験を通じて感じるのは経営理念というものの大切さである。いいかえれば“この会社は何のために存在しているのか。この経営をどういう目的で、またどのようなやり方で行なっていくのか”という点について、しっかりとした基本の考え方をもつということである。

事業経営においては、たとえば技術力も大事、販売力も大事、資金力も大事、また人も大事といったように大切なものは個々にはいろいろあるが、いちばん根本になるのは、正しい経営理念である。それが根底にあってこそ、人も技術も資金もはじめて真に生かされてくるし、また一面それらはそうした正しい経営理念のあるところから生まれてきやすいともいえる。

だから経営の健全な発展を生むためには、まずこの経営理念をもつということから始めなくてはならない。

君らの立場は一新入社員やな。しかし、意識は社長になれ

3%だったら、今までの延長線上でコストダウンを考える。しかし、3割下げるには商品設計からやり直さなければならない。そうだとしたら、3割は無理ではない。やってみよう

松下幸之助の成功の秘密

このようにすごさを表すエピソードが豊富にある松下幸之助ですが、一体どのようにして成功したのでしょうか。

  • 自身の境遇を利用した。
  • 人材を大切に育てる
  • 目標を掲げる経営をした
  • 時代に合わせた事業を行った

それでは1つずつ解説していきます。

自身の境遇を利用して成功した

彼の成功はお金もない、学歴もない、健康もない「ないない尽くしからの成功」と言われています。しかし、松下幸之助はこのような自らの境遇にただ嘆くのではなく、むしろ利用することで成功しました。

松下幸之助は体が弱かったからこそ、人に仕事を頼むことを覚えました。
学歴がなかったからこそ、いつだって謙虚な姿勢で人に教えてもらうことができました。

そして、お金がなかったからこそ、幼い頃から丁稚奉公でビジネスマナーや商売のいろはを教わり、世の中の厳しさを身を持って体験できたのです。また、お金がなかったからこそ、地道に計画を立てて、銀行の融資のなかでコツコツと事業を進めていくことができました。

したがって、松下幸之助は「何もなかったからこそ成功した」といえるのです。

人材を大切に育てる

松下電気器具製作所の創業当初は、まだまだ小さく名も知られていない町工場でした。

そのような会社に来てくれるのは、他の会社が採用しないような人たちでした。さらに、採用したとしても出社してくれないこともあったのです。

そのようななか、ある子を採った翌日に松下幸之助は外に出て、その子が来てくれるかどうかを待っていました。そして、その子の姿が確認できると急いで中に入り、素知らぬ顔でその子を迎えたそうです。

このような時代もあって、松下幸之助は「社員は大事にしなければならない。大事に育てれば育つ」ということで人材育成に力を入れていました。

目標を掲げる経営をした

松下幸之助は、経営者としての役割の1つは、「従業員に夢を持たせ目標を示すことである」としており、「それができない経営者は経営者として失格」とまで語っています。

目標を与えることで従業員はその目標を成し遂げようと、いろいろな工夫や努力をするようになり、皆で一致団結するようになるのです。

しかし、目標や理想を掲げなければ従業員は自身の能力をどのように発揮すればよいか、またどのように協力すればよいかわからなくなり、パフォーマンスが低下してしまいます。

だからこそ、経営者は従業員に対して目標や理想を語り、その目標を達成したら次の目標を提示する必要があるのです。

毎年、目標を発表し続けた松下幸之助

松下幸之助は松下電気器具製作所を創業して間もない頃から、毎年の経営の状況と新年の抱負などを発表していましたが、会社の経営が軌道に乗ってきた1940年1月10日から毎年、経営方針発表会を開くようになります。

そして、その発表会のなかでその年の経営方針や目標を発表し続けてきました。

いまでは当たり前となっている週休二日制や8時間労働制、また初となるアメリカ視察や5カ年計画の発表もこの経営方針発表会だったのです。

1932年に開かれた第1回創業記念式典では、250年計画という実に規模が大きい目標を掲げて従業員に対して夢や理想を与えました。

まさに、松下幸之助の経営は「理想や目標を与える経営」と言えるでしょう。

時代に合わせた事業を行った

松下幸之助は大阪電灯に見習工として入社していますが、このときまだ15歳だったにもかかわらず、街で走る電車を見かけて「これからは自転車の需要は減って、電気の時代になる」という考えのもとに大阪電灯に入社しています。

このように、松下幸之助は時代を読みながら動く人物であり、時代に合わせて事業を行ったことも成功の要因です。

現在で言うならば、AIやロボット事業分野、脱炭素化事業、電気自動車、半導体・エレクトロニクス事業、高度医療先端技術、再生エネルギーなどの分野であれば、今後の時代に求められるものではないでしょうか。

当然ですが、時代にそぐわない事業を行ったとしても成功は低いため、今の時代、またはこれからの時代に何が求められているのかを考えて動くことが重要です。

松下幸之助の理念

松下幸之助は理念を重視していたようです。理念を重視した理由は以下の3つにあるようです。

  1. 決断を下す根拠とするため
  2. 社員が仕事に使命感をもてるようにするため
  3. 困難に直面した時の支えとするため

決断を下す根拠については「経営理念を確立することで得意先に対しても、言うべきことを言い、なすべきことをなすと言う力強い経営ができるようになった」と語っています。

社員が仕事に使命感を持って取り組むようにするためについて、理念も定めてから社員が自発的に朝会と夕会を開くようになったようです。

また理念は困難に直面した時の支えになったともいいます。戦後の混乱に直面しましたが、松下幸之助は「困難の中で支えとなったのは、その生産人としての使命感であり、何のためにこの経営を行なっていくのかと言う会社の経営理念だった」と語っています。

こうして、経営理念を重視していたのですが、経営理念を打ち立てた後のメリットも次のように語っています。

「(経営理念によって)経営に魂が入ったといっていい状態になったわけである。そして、それからは、我ながら驚くほど事業は急速に発展したのである。」

なお、理念を浸透させるためのポイントについては以下の記事で解説しています。

まとめ

今回は、松下幸之助がどのような人物だったのかを紹介しました。

時代に応じて求められるものを生み出す、その先を見通す力、そして目標を掲げることで従業員を導き、力を発揮させるという、人と企業を育てる経営は、いつの時代においても重要視されることでしょう。

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この記事の著者

NBCPlusオンライン編集部

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